カメラを始めたきっかけ
昨日、友人にカメラを始めたきっかけを軽く話す機会があったので、文章にしてみる。
バンドを通じて、アーティスト写真、ライブ写真などでフォトグラファーの皆さんと関わっているうちに、写真て素敵やなぁとぼんやり興味を持っていた。俺が撮るなら、家族写真を撮りたいな、近所の野良猫撮りたいな、とか。そんなことをぼんやり思ってただけで日々が過ぎてたんですが、とある出来事がきっかけで一眼レフカメラを買うに至った。
二年前の秋、地元の和歌山にいる姪っ子甥っ子の運動会の写真撮影(その時は借り物のカメラ)を頼まれて、実家に帰省した。姪っ子はもともと身体の線が細く、アトピーやアレルギーがひどかったり、甥っ子はなかなか言葉を話せず、色々と心配な部分があったが、運動会では元気な姿を見せてくれて、子供はたくましく成長するものだなと感心した。最近は二人とも随分と口が悪くなり、立派なクソガキに成長しつつある。
運動会の撮影を終えて母親と家に戻ると、留守番をしていた飼い犬の様子がおかしいことに気付く。すぐに動物病院に連れていき、その日は入院することになったが、翌朝、病院から息を引き取ったとの連絡があった。高齢ではあったが運動会に出掛ける前はいつも通りにしており、あっけなく天に召されたのであった。母親と二人で車で迎えにいくことになり、行き帰りの道中、母親は今まで見たことがない程に泣いていた。涙を拭う手を見ると、生前の祖母のようにしわしわだった。
小型犬というのもあり、そのまま庭に埋めてやることになった。瓦職人をしている父親の現場がその日は家から近くだったので、お昼に父親が帰ってきて、何も言わずに黙々と穴を掘り始めた。その年の台風被害で、猛暑のなか一日も休みなく働いていたというのもあるが、穴を掘る父親の姿は随分と痩せていた。酒と家庭内暴力がひどかった祖父を、半殺しにするほど勇ましかった父親の面影は無くなっていた。(半殺しにした話は字面だけみるとひどいが、小川家では笑い話として語り継がれている)
老い朽ちていく両親の姿を見て、元気に成長する姪っ子甥っ子の姿を見て、次に会う時は両親も子供たちも違う姿に変わっているのだろうなと思うと、家族の記録を残したくなった。ぼんやりしていた写真への興味が一気に高まったのである。そこからは早く、少し安くなっていたエントリーモデルの一眼レフカメラを試しもせず勢いで購入した。
これが僕のカメラ道の始まりである。

今やスマートフォンでも気軽に十分綺麗な写真は撮れるが、僕はカメラで撮るほうが圧倒的に良い感じ(語彙力)の写真が撮れている。機器として根本的に違うものなので、もちろんその差も大きいと思うが、カメラで撮ったほうが撮影者の意思が写真に強く出る、という内容の話を昨日友人がしていて、なるほどなと思った。自分では気づいてなかったけど、カメラを飽きずに続けているのはそれが大きいのかもしれない。
ここ数年、自分に姪っ子甥っ子ができたり、周りの友人に子供が誕生したり、賑やかになってきた。その反面、先が見えない不安な情勢が続いている。自分の人生を楽しみつつ、子供たちにより良い未来を残せるよう日々行動していきたい。